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● ネオテニイラボの活動について ●

個人的な仮説に基づいて行われているネオテニイラボの活動の説明を、論文風に書いてみました。
初めてお越しの方は1〜3までお読みいただければ幸いです。
4以降はかなり長いので、お時間のあるときの娯楽としてお楽しみ下さい。

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1.ネオテニーとは

 ネオテニーは、動物において、性的に完全に成熟した個体でありながら非生殖器官に未成熟な、 つまり幼生や幼体の性質が残る現象のこと。幼形成熟、幼態成熟ともいう。 また、進化の過程にネオテニーが重要な役割を持つという説があり、 ヒトはチンパンジーのネオテニーである(L・ボルグ1920)、 またモンゴロイドはよりネオテニー化が進んでいると主張する学者もいる。 ネオテニーは脳や体の発達を遅らせ、各種機関の特殊化の程度を押さえることによって、 そうでない生物より環境の変化に対して柔軟に適応することができるとされる。 (Wikipediaより一部引用、要約)

2.ネオテニイの定義

 当サイトでは、ヒトの進化がネオテニー的であるという説を広義に解釈して扱っている。 ネオテニー本来の意味との混同を避けるため、これ以下では、この広義での概念を「ネオテニイ」と呼ぶ。 定義は下記の通りである。

  ネオテニイ:成人でありながら身体的、精神的に幼児の性質を残す現象のこと。

3.ネオテニイラボとは

 一日本人女性(当サイト管理人)が 現実逃避として描いていた女性像が成人以後急速に幼児化した (もへのおいたち参照)原因を、 ネオテニイの一種として解釈し、そのイメージがどのように進化していくのかを作品、 らくがきを問わず継続的に記録・観察するものである。  

4.なぜヒトはネオテニイなのか

 もともと仮説にすぎない人類ネオテニー説を広義に解釈する以上、 ヒトがネオテニイである理由を考える必要がある。動物がネオテニーになるのは 発達を遅らせることで環境への適応度を上げるためと考えられているが、 ヒトの場合も同じ理由が認められるだろうか。以下でその見解を述べていく。

5.ネオテニイと環境への適応

 人類は生活に必要な環境を文明や文化によってコントロールしてきた。 人類にとってこれらの発達は生活を向上させるだけでなく、ヒト自身の発達も意味する。 マクルーハンの言葉に 「メディアは人間の身体の拡張である」とあるが、 (ここでいうメディアとは情報だけではなく、身体をも含めた意味での媒体を指す) たとえば車輪は足の延長となることで、より速く走ることができる。
 一般的に動物は、環境に対して、自らの身体能力を拡張することで適応するが、 ヒトは自分(ex:足)の代わりに、ヒトが生きる環境を作る文明や文化そのものを、 自らを補完する媒体として進化させる(ex:車輪の発明)。 つまり人間は、環境への適応面において他の動物とは、全く逆の方向へ進化する。

 この傾向は文明の利器と人間の間だけでなく、個人同士の結びつき方にも現れている。 その中でも最もミニマムな個人同士の結びつきである家族について考えてみたい。
 家族は基本的に親と子、男性と女性が互いに補い合うことで結びつく関係である。 その関係は、互いにより依存する状態、つまり子が幼なく、 親が家庭内の管理や収入源を互いに頼っている状態であるほど強く働く。 そして家族が皆、自分の生活を自分で管理でき、互いの収入に依存せずに済むようになれば、 家族はそのシステムとしての役割を終える。
 このシステムのメリットは、生まれた人間が成人するまでの長期の間、 互いの愛情の有無にかかわらず、簡単に崩壊できないことにある。 また互いを支え合うことは愛情を育てるのにも役立つ。そうすることで、 養育がまだ必要な時期に関係が悪化して俗に言う「家庭崩壊」状態になった場合にも、 その物理的な崩壊を防ぐことができる。また、家族の役目が一度終わっても、 愛情で関係が続けば、再び相互扶助が必要になった場合にも役立つ。 現在は、離婚や不慮の事故で家族を失っても子どもの命が即危険になることは少なくなったので、 このメリットはむしろデメリットのように思われるが、 基本的に家族は、一部が機能不全に陥ったくらいでは簡単に崩壊できないことに価値があるのである。
(注:民間の養・教育施設や崩壊した家族へのセーフティネットがさらに発達するなど「進化」が進み、 解散できないデメリットが拡大すれば「家族」の役目は縮小していくだろう。 そして成人するまで子どもの命を守る以上に、 子どもを社会と健全な関係を築くことができる、 つまり環境に適応的である人間に育てることが、家族の機能としてより強く求められるようになるだろう。 ちなみに全員が互いに依存せずに済む家族や子がない家族にも次に説明するその他の組織と同様のメリットがあるので、けして無意味ではない)

 文明や文化はヒトを補完すると先に述べたが、それは無償で得られるものではないそれを獲得・維持するための対価(学習・金銭・労働力・法律の遵守など)を支払うことがそれらと結びつく条件である。 そのため、個人ではまだその対価を払えない子どもたちを結びつけるためのシステムとして家族が必要とされるのである。
 このような機能は、もっと大きな単位である学校や企業など、 組織全般にも当てはまるものであり、 組織を文明や文化との結びつきの間に挟み込むと、 それ自体が接着剤の役割を果たすので、組織内の人間と直接補完しあう関係にならなかったとしても文明や文化との関係はより強化され、 対価の支払いがスムーズになり、結果としてその恩恵を受けやすくなる。 一般的に人間が自立していると言うとき、あるいは居場所があると言うとき、 その人は文明・文化と強く結びつき、十分に補完された状態であると言える。

 このように人間にとっての自立は、動物的な意味での自立とは異なり、 独立した個人として十分な能力を持っていることを意味しない。 むしろ動物と同じ意味での自立を望めば、人間らしい環境での居場所を失い、 山奥の仙人のような道を選ぶしかない。 しかし仙人もまたモノの理解を文化の恩恵である言語に依存する以上、 完全に「人間」として自立することは不可能である。 つまり「環境=文明・文化」の人間にとって、厳密な意味での自立は存在せず、 人間であることと自立することは両立しない。
 人間にとって環境に適応することは、この厳密な意味での「自立」をよりしないことであり、 より大きく依存できるほどヒトは環境に適応的となるのである。

6.ネオテニイと人間の価値観

 健康的な体に美しさを見いだすように、生命の維持に対してそれが有益か否は、 わたしたちの価値観に影響を与えているが、 ヒトの進化の方向性は、 その価値観にどのような影響を与えているだろうか。
 前項で述べたように、ヒトはより補完される方向で進化しており、 自立していない方が環境に適応的である。ヒトがより進化し、随時適応していくためには、 それにあった価値観を持つ必要があるのだが、 生命維持の必要性によって設定される価値観は概して極端になる傾向がある。 それは他の興味よりそれらを優先させるであろうが、 性や食に関する情報が他に比べてはるかに氾濫していることなどがこれを説明している。 進化についてはどうだろう。即、命に関わる事項ではないにせよ、 長期的にみれば1回の性交や食事の獲得より遙かに重大なこのことについて、 無視されているとは思えない。 むしろ、この目先の命よりも大切な物として意識させるはずである。 つまり目先の命より大切にされている価値観があるとすれば、 その中にヒトをネオテニイにするための価値観が潜んでいるはずであるのだが、 人間が、性や食より大切にし、またそれを抑制しうるものがあるとすれば、 それは宗教ではないだろうか

 神に依存し、恵みを受ける存在として理想的な姿、神を畏れ、敬い、 神の前に等しく無垢で無力であるが故に幸福を手にすること。 これはまさにヒトが文明・文化に完全に依存することによって、 環境と一体になることを象徴している。つまりネオテニイから進化を考える場合、 宗教はこのイメージを具現化したものとして現されるのである。

 しかし、ここには問題もある。それは宗教に熱心でない人間もいることだ。 実際先進国のように文明や文化の恩恵を受け、 生命の維持にそもそも困らない人は神を重んじなくなる。 これは神が「完全に進化を遂げた未来の文明・文化」を象徴している以上、 文明・文化が実際に進化してその恩恵を十分に受け始めれば、 あえて神をあがめる必要がなくなってしまうためでつじつまは合うのであるが、 一部の人間が恩恵を受けているのにすぎない段階で、 彼らが進化を志向する価値観から解放されてしまうのでは、 進化が進むほどその効率が悪くなってしまう。

 そこでもう一度視野を広げて考えてみたい。
先ほど説明した宗教を通して理想とされた自己イメージとは(神の前では)無垢で無力であることだった。 しかし実際には無垢で無力な成人が生きていくことは難しい。 それを宗教では文明・文化の象徴である「神の前で」という限定的な条件を付けることで可能にしていたわけであるが、 宗教を離れた場合、それはどういう条件の下で可能になるだろう。

 ヒトは完全なネオテニイになることを進化の果てに目指している。 また、現時点でもより依存度が高く補完される余地のある人間の方が適応的であり、 家族の例のように人間同士も補い合う以上、健康に美を見出すのと同じような感覚で、よりネオテニイ的な人間、 自分が補う余地がある人間を好ましく思う傾向があるはずである。 とすると、自分よりネオテニイ的な人間、 つまり自分より無力な存在(本当に無垢かは他者からは分からないので略)を 神が愛したような無垢で無力な存在として愛でることは、 自分自身が完全なネオテニイになれない現実を補い、憧れを満たしているのかもしれない。
 ヒトは皆、生まれてしばらくの間は身体的にも精神的にも正真正銘の幼児であるから、 自分が完全なネオテニイになれないという悲劇と向き合う必要はない。 しかしその憧れは、自分自身が幼児でなくなる段階から実現可能な自己像と乖離せざるを得ない。 この、ヒトが幼児らしい身体的特徴を奪われ、 精神的な自立を促される時期は異性への性的興味を持つ時期と重なる。 そのとき、男性は女性が自分たちより女性の方が身体的に無力であることを発見する。 それ故、彼らは女性の無力さを種に、 実際よりさらに無力で無垢なものだという幻想を抱くことで、 無意識のうちにネオテニイへの憧れのカタルシスを、 性的興味と一緒に求めることになるのではないか。
 異性に抱く幻想は世代を重ねるほどに文化として定着し、 個人的体験がなくても一般的な女性らしさとしての認識を広めるが、 事実、それによって「無垢さ・無力さ」は特に「理想的な」意味での女性らしさのひとつとして、 現在広く浸透している。

7.ネオテニイと女性の自意識

そういうわけで、男性は女性をネオテニイ願望の受け皿とすることで、 宗教を失ったとしてもネオテニイになれない自分と葛藤せずに済むようになったわけだが、 このような「幻想」を抱かれた女性はどうだろうか。 そもそもの女性らしさと、このネオテニイ的な女性らしさは女性にどのような影響を与えるのか考えてみたい。

 男性らしさ・女性らしさとは何かを考えるとき、 男性らしさが父性に象徴されるものであるなら、 本来女性らしさは母性に象徴されるものであるはずである。 母性は心理学上では「善悪の分け隔てなくすべてを包み込む傾向」とあり、 無力や無垢ではとても務まらない分別と強さを要する特徴を持っている。 女性たちはネオテニイへの願望が投影された新しい女性らしさと母性の両方を男性に求められることになったわけだが、 これらを同時に発揮することは現実的につじつまが合わない。

 しかし、この矛盾した女性像は、男性が幻想を抱き始めるのと同じ時期に、 女性もまた異性への関心が高まるため、 女性自身の自意識にも理想的な女性像として深く刻まれる。 そして、母性を本格的に発揮する必要がまだなく、 無垢さや無力さをある程度実現できるために、 思春期の自我の発達に深い根を下ろすことになるのだ。
 女性はいずれ、子どもを産めば母性を発揮しないわけにはいかなくなる。 女性は男性を獲得するのに当たっては、無垢さ・無邪気さによって女性らしくあろうとし、 子どもを産んでからは本来の意味での女性らしさを果たそうとするのであるが、 今まで通り女性らしくあろうとし続けているだけなのに、 いつの間にか無垢さや無力さを失うのである。 ところで男性の中には、女性が母親になり母性を発揮するようになると、その女性への幻想を失うため 性的な興味が持てなくなり、いまだ幻想が維持できる別の女性を求める人もいる。 また、そもそもの性的欲望をアイドルや二次元の女性像というメディアで補完する男性の場合は、 それ以外の男性が現実の女性に抱くのと同じ幻想(女性は無垢・無力である)をアイドルや二次元の女性像に抱く事になる。 その場合、現実があまり干渉せず、幻想が失われる可能性は極めて低いために、 その女性像は、より純粋な幼児性を持った人間の姿=ネオテニイが志向されるようになる
 このように男性はひとりの女性に幻想を抱けなくなっても、 現実であれ空想であれ、別の女性に新たな幻想を抱けば済み、 いつでも性的な欲望といっしょにこれを昇華できるのであるが、女性の場合はそうはいかない。 女性は母性を発揮するようになり、自らの無垢・無力性を失ってからも、 その発生が性的魅力と結びついているために、男性に愛されるために必要な自分の姿として、 もはや実際の自己像とは著しくかけ離れてもなお、執着するのである。
 人によってはこの解決を宗教に求めたり、 自分の子どもをより激しく慈しむことで解消しようとするが、 この事実は女性の方がスピリチュアルな商売や新興宗教にはまりやすいことや、 多くの母親が過保護に陥ったり子離れできずいることが物語っているのではないだろうか。

8.ネオテニイ「もへ」の誕生

 さて、ここからがこの仮説の核心である。 先に述べたような宗教や自分の子どもに欲望の受け皿を求めなかった女性はいかにしてこれを処理しているか。
 その答えは以下である。自分の外側に欲望の出口を持たなかった女性は、 ネオテニイ的である理想的な自己像を、現実を生きる意識と完全に分裂させて、 もうひとつのパラレルな世界の自我として隠し持つようになる。

 現実との比較から解放された自己像は、 アイドルや二次元の女性を好む男性がそのイメージをより純粋なネオテニイに近づけたように、 より完全なネオテニイの形へと段階的に進化させる。 母性が発揮され、個人としてよりネオテニイから遠ざかるほど、 男性からの寵愛が受けにくくなるほどに、 この思春期に植え付けられた「無垢で無力であるが故に愛される女の子」像は、 より純粋な形に姿を変え、完全なるネオテニイを目指す。 このような自己イメージを抱えた女性がもし絵を描くなら、 それが紙の上を出口として姿を現しても不思議ではないのではないか。

 当サイト「ネオテニイラボ」で描かれている「もへ」はこのようにして吐き出された、 女性の意識の底に沈んでいたもうひとりの自己像である。 それは生理のように周期的に排泄され、その度にイメージは変わった。 数年の後、彼女は「もへ」と名付けられ、 その「もへ」が抑圧された幼児性への憧れを体現した自己、 ネオテニイとしての自分の姿であるいう仮説を立てたのは2005年。 翌年結婚し、妻や嫁の役割を通して女性らしさと向き合う中で、イメージの変化を特に感じて来た。

 2009年現在、私は初めての出産を控えており、近い将来母性を発揮せざるを得ない環境に置かれる。 現実から乖離するほどに進むはずの「もへ」はどう変わっていくのだろうか。 ネオテニイラボは今後も「もへ」の進化を追跡していく。

9.結びに

 ヒトが進化について考えるとき、ヒトと他の動物の決定的な違いは何であるのか、 これを意識せずに済ますことはできない。 この仮説では人と動物では進化の方向性が逆であると述べたが、 これをもっと端的に言うと何になるだろうか。

 テレビをつけていると、飼い犬にアテレコがされていることがある。 そこで語られる犬の気持ちは無垢で、飼い主に忠実で、まるで子どものように無邪気である。 また、感動的な動物の話で有名な、 飼い主を待ち続けたハチ公も、 目・鼻・耳の不自由な子ぎつねヘレンも、 牧羊犬を必死に真似るベイブも無垢で無力だ。 しかしこれらは男性が女性にそうしたように、 自分よりも無力な動物に幻想を重ねたものであって、 動物にとってみれば本当の意味で彼らの理想的な姿ではない。 そもそも動物は、無垢や無力であっては生きていけない。 無垢や無力なことは「悪」であってまったく好ましくはない。 なぜなら無力な動物は獲物を捕らえられないし、無垢な動物は天敵に食べられてしまう、仲間も危険にさらす、「ダメ」な存在でしかない。だから彼らは「そういう環境」で生き延びるために進化する。 どういうわけかその中で、人間だけが180度向きを変え、「そういう環境」で生きることを拒否したのだ。
 そして現在、人間は無垢で無力であってもそう簡単に命を奪われることはない。
 人間だけが、「ダメ」でも愛されるのだ。そして、誰もが不完全であることを認め、肯定できる。

 ヒトは文明・文化に依存することで、 ほとんどのヒトは本来動物として持っていた本能や筋力を失った。 しかし、その代わりに野生の環境に適応する方法では生き延びられなかった多くの仲間を失わずに済んだのである。  

 わたしはこのことを思う度いつも不思議な高揚感を覚える。もし、ヒトが野生に適応する道を選んでいたら、私のような人間は絶対に生きていない。

 ヒトが他の動物よりも優れている点があるとしたら、 それは言葉でも道具でも知能でもなく、 人類が皆で生きる方法を選択したことではないかと思っている。
 無論、そのためにヒトが他の生物の命を必要以上に奪うことになったこと、 文明・文化により依存する方向にヒトが進化する限り、この影響が拡大していくことは、 厳粛に受け止めなければならない。
 とはいえ、この選択を人間以外のどの動物も未だにしないのはとても不思議なことで、 これは進化という生き残り競争の果てに何があるのかのヒントになりはしないかと考えたり、 進化の果てまで命がなくても、先進するネオテニイである「もへ」を描き続けることで 何かを発見できるのではとか考えたりしている。

 と、いうわけでここまで読み進めた方も、 とりあえず太字だけ追ってスクロールバーを一番下まで下げてみた方も、 時々女の子を描いて、観察してみてはいかがでしょうか。 面白い経過が見られたら、ぜひネオテニイラボまでご一報下さい。

☆ 注意書き:

これはネオテニイの発生と進化を説明するために個人的に考えた仮説であり、
学術的な研究や十分な検証に基づくものではありません。
 観察の経過によっては内容が修正される可能性も十分にあり、
また、活動の方向性を明確にするために敢えて極論的な表現をしておりますが、ジェンダーや個人の趣味などあらゆる事象はひとつの原因によってのみ説明可能なものではありません。
 以上の理由からこの文章の無断での引用、転載はご遠慮願います。

 なお、ネオテニイについて類似の見解を持つ学者の方をご存じでしたらお知らせいただければ幸いです。
ご連絡はMail formよりお願いします。

                                        2008年8初稿
                                       2009年3月改訂

                                ネオテニイラボ管理人 上村ゆかこ